コネクト・ザ・ドッツ

アイディア

7月15日にシンガポールに到着し、翌16日は怒涛の1日を過ごし、今少し時間ができたので、これまでのことそしてこれからのことについて書いていこうと思います。

現在の状況を整理すると、私は単身でシンガポールに来ており、バレーボールコーチとしての修行をスタートさせています。そして、ゆくゆくは家族みんなで海外移住して生活をしていくことが当面の目標となります。

海外でのバレーボールコーチ活動。そして、家族での海外移住。

今、私がやることはとても明確です。

「バレーボール」と「コーチング」

2024年現在。

バレーボールコーチとしてのキャリアをスタートさせ約10年が経とうとしています。最初は高校教員として部活動でのコーチング。その後、小中学生を対象としたバレー塾やクラブを設立してのコーチング。

さらにカテゴリーは拡がって、未就学児を対象としたコーチング。昨年度はご縁をいただき、ヘッドコーチという立場でプロチームでのコーチング。2024年度に入ってからはママさんバレーでのコーチングに関わることも。

10年という期間の中で、本当に様々なカテゴリでのコーチングを経験させていただく機会に恵まれました。

そして、年齢や性別、そして競技レベルに至るまで様々なカテゴリにおいてコーチングをしてきた中で、多くを学んできましたが、そうした過程の中で確信に近い感覚を持てたことがあり、それを私自身とてもうれしく思っています。

それは、私は「バレーボール」と「コーチング」が本当に好きだということです。どのコーチング現場においても純粋に「バレーボール」と「コーチング」を心から楽しみ、それらを愛おしく感じてきました。

こうした様々なご縁に恵まれた私ですが、私にとって未知の世界であり前々からずっとチャレンジしたいと思っていることがありました。それが、海外という環境の中で私の大好きな「バレーボール」や「コーチング」をするということです。

言うまでもなく日本は島国であり、単一国家。基本的には皆が同じ教育を受け、同じ文化の中で、同じ言語を話す。

こうした環境的制約ゆえに海外へ出てチャレンジすることのハードルは高いと感じます。また環境的制約ゆえに、日本人の価値観に凝り固まってしまいやすく、良くも悪くもガラパゴス化してしまう傾向がある。

『私自身が無意識のうちに自分自身の価値観が固定されているのではないか。』

『海外の「バレーボール」や海外での「コーチング」を経験して後にも、私の「好き」という気持ちは揺らがないのだろうか。』

『海外の「バレーボール」や海外での「コーチング」に触れることで、自分の当たり前を破壊することができるのではないか。』

こうした想いが沸々と湧いてくるようになっていったのです。

6年越しのチャンスを掴み取る

いつかは海外でバレーボールコーチングをしたい。

実は、この想いは約6年前頃から持っていてそこは一貫してずっと変わらずに私の心の中にありました。

一度はドイツに単身わたり、プレーヤーとしてチャレンジしつつ、海外でのコーチングも志向しましたが、息子の大怪我があったため渡航してから1ヶ月で帰国。その後もバレーボールのコーチングに軸足に置きながらもずっとチャンスを伺ってはいましたが、コロナ禍による長期の渡航制限などもあって、海外でバレーボールコーチングをするというチャレンジは先延ばしになっていました。

ただ、一方で幸いなことにこの6年という期間で上述した通り、多くのご縁によって自身のコーチングと向き合い続ける機会を得ることができ、6年前の自分が立っていた景色とはまったく違った景色を見ることができていると自分では感じられるようになりました。そして、息子は怪我の後遺症も今のところはなく、すくすくと元気に育ってくれています。コロナ禍も終焉を迎え、海外でチャレンジする状況も整ってきたのです。

6年前には揃っていなかったピースが、今振り返ってみると一つずつ一ずつですが揃ってきたのです。

6年越しのチャンスがやってきた今。そのチャンスを掴み取るしかないと考えたのです。

経験を重ねるということの意味

6年間という決して短くはない期間であることも間違いありません。

この期間で得られた経験が今の私にとってプラスに働く一方で、様々な経験をしていくことによって得られた知識や認識が未知へのチャレンジをすることの足枷になってしまうというマイナス面にも目を向けなければなりません。

6年前の私であれば無知・無謀(今思えばですが)がゆえに周りからはリスクや危険が高すぎるとも思われるような行動や判断もできていた(していた)と思うことも少なくありません。もし、今現在の私の知識や認識をもっていれば、6年前の海外へのチャレンジは遂行されるということは間違いなくなかっただろうと思ってしまいます(ただ、たられば論にはなりますが)。

ここで言いたいことは、経験を重ねるということには多くのプラス面がある一方、決して見過ごしてはいけないほど大きなマイナス面もあるということです。経験という固定概念に縛られてしまうことで、行動力がスポイルされてしまうことがあるのです。

岡本太郎氏が、人生は積み減らしだといっていたように獲得した経験や知識を敢えて、意識的に切り捨てるということは、とてもとてもとても大事なのではないかと強く思うところです。

点と点が繋がる

こうして改めて、6年前の海外へのチャレンジからのこれまでを振り返ってみて感じていることがあります。

それは点と点が繋がってきたというものです。

一つ一つの経験や出来事、人との出会いが自分でも知らず知らずにうちに繋がってきて今があるという感覚を強く持つのです。

誰もこの感覚を人生の中で感じていると思いますし、人生を通じて私自身もこうした感覚は持っていましたが、特にこの6年間を振り返ってみると「点と点が繋がる」という感覚をとても強く感じていると思います。

なぜそのように感じているのかを考えてみたときに、その理由として私が真っ先に思うのは、その時々の瞬間、つまり「今」に集中していたということが最大の要因ではないかということです。

どちらかというと私は人生の早い段階から「未来のために今これをしよう。」という思考パターンもって生きてきました(今もその傾向はあります)。未来の目的を果たすために今がある。つまり「今」は「未来」の目的のための手段であるという考え方です。それはそれでとても大切なことだとは思いますが、この考え方だと「今」は「未来」の手段と成り下がってしまい、いつまでたっても「今」は「未来」の犠牲となってしまうのです。

こうして考えると「今」この瞬間だけに意識を集中して没頭する感覚。「自己目的的」に日々を過ごすことは豊かな人生を生きていく上でとても大切な考え方なのではないかと思います。

これから、新たなチャレンジの日々がスタートしますが、これから始まる日々が、チャレンジ(目標)を達成するための手段に成り下がってしまわぬように、こうした考え方は大切にして今この瞬間を生きていたいと思います。

人に支えられていることへの感謝

「自己目的的に生きる」というとその言葉からはとても自己集中的なイメージを持つかもしれませんが、私はそのように思っていません。自分の今この瞬間の時間を大切にしようと思う気持ちがしっかりと定着してくると、自然と他者の時間も大切にしようという気持ちになってくるからです。有限なる命(時間)を使って、私と一緒に食事をとってくれた、私の話を聞いてくれた。私を助けてくれた。

このように自然と考えるようになり、感謝の気持ちが強く湧いてくるようになります。

私は本当に多くの人に支えれて生きていますが、特に今回の私たちのチャレンジを決して否定せず、身近に支えてくれた、そしてこれから支えてくれようとしている家族や友人、仲間には本当に強い感謝の気持ちを感じています。

「結果」ではなく、コントロールできる「今」に没頭する

人が死ぬときにする後悔というのは、総じてやらなかった後悔だと聞きます。

私はまだ死んだことがないので、それが事実かどうかは知りませんがこれまでの経験からやりたいと思い、自分で決断し、やったことに対して結果がどうあれ心から本当に後悔したと思うことは一度もないです。一時的には失敗したと感じ、猛烈に反省して落ち込むといったことは無数にありますが、特に大きな失敗をした感じたときには、同時にそこから大きな人生に大きな影響を与えるような学びを得ています。そして、その学びが自分の生き方に大きな影響を与えていて、もしその「一時的に失敗だと感じた経験」がなければ今の自分はなかったのではないかとさえ思うことがあるのです。

今回のチャレンジが成功するのかどうかは私自身、正直わかりません(そもそも成功が何かというのもなかなか定義することが難しいとさえ思っています)。行動した先の結果なんて、いつだって自分でコントロールすることなんてできません。

できることは「今」この瞬間に心を向けてベストを尽くすことだけです。こうして「今」に没頭していると自然に不安や心配は消えていきます。

肩肘張らずに、自然体で今の自分を一生懸命生きたいと思います。

Saika Yuta
written by

1987年生まれ。小学1年でバレーを始める。小·中学校時には計4回全国大会に出場。中学3年時は香川県代表の主将としてJOC出場。高校では、進学校にて春高出場を目指す。大学進学を機にバレーから離れるが高校教員となりバレー指導に没頭するように。そんな日々の中、バレー選手になるという夢を諦めきれていない自分に気がつき、教員を辞めバレー選手となるためドイツ·ベルリンへ。生活基盤が整い始めた矢先、息子が大怪我をして急遽帰国。息子の回復後は北海道へ移住しクラブを設立し、コーチングを生業とするように。その後、縁あって仙台市を拠点に活動するリガーレ仙台(当時:V2リーグ)のヘッドコーチに就任。ワンシーズン指揮を執る。2024年7月より、シンガポールの育成クラブにてコーチング活動に従事。

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