モノに感情ではなく機能を求めよう

アイディア

最近の私の趣味はモノを減らすこと。

以前のブログでミニマリストについて私の考えを少し書いたが、最小限のモノしか所有しない生活を目指して、日々精進している。

元来、私の所有欲は強いほうだと思う。子どもの頃からお菓子を買うときはおもちゃ付きのものを好んだし、友達からもらったおみやげのキーホルダーやお菓子の空箱などをため込んでいた。なにかとモノを所有することを好んでいたように思う。

さらに長年、所有したモノには多くの思い出を詰め込み、どんどん捨てることができなくなっていったように記憶している。自分でもよく覚えているのは、バレーボールの大切な試合で使用した使用済みテーピングを数年間、所有していたことだ。今思うとただ一言。汚い…。

しかし、ミニマリズムという概念に出会い、洗いざらいといっても良いほどにいらないものを断捨離した。断捨離をしたことがある人は分かると思うのだが、必ずといっていいほどモノを捨てるときには過去の感情に想いを馳せてしまうのである。

「あ~これは妻と結婚する前に選んでもらった服だな~。」といった具合である。

そして捨てるかどうか迷うのである。初めのうちは、なかなか捨てられないのだが訓練(?)を積んでいくうちにだんだんスっと捨てることができるようになる。こうしているうちに不思議と違う考えが生まれてくる。それは、こうだ。

そのモノがないと思い出せないような記憶や感情であれば消えてしまえばいい。

当たり前だけれどモノはあくまでモノだと考えられるようになった。それ以上でもそれ以下でもない。モノに対して感情を詰め込まないことが大事だと考えるようになっていった。そして、モノにはそのモノが持つべき機能に注視すべきだと思うようになった。

ここで、モノに「感情」を持ってしまったケースを紹介しよう。

それは見栄という感情だ。見栄とはお金持ちに見られたい。綺麗に(カッコよく)見られたい。

私は以前、高級紳士靴を何足も買い求めるという愚行に走っていた。これらのモノ(高級紳士靴)には私の見栄の感情が蔓延っていた(今ではほとんどの靴を処分した)。

次に、モノに「機能」を追求したケースを紹介しよう。

会社の取引先に信頼してもらいたいという考えから高級紳士靴を経済的に負の影響がない範囲で数足だけ大切に所有するといった話である。

この場合、先に紹介した私の痛い過去の話と高級紳士靴を所有するという点については同じではあるが、取引先に信頼してもらうという「機能」に注視している点で明らかに違っている。

上記の二つのケースを比較すると行動ベースでは同じように見えるが、所有する動機が全くもって違っている。

機能を追及してモノを所有するようになると、自然と無駄な購買活動やモノへの執着(物欲)は減退していく。そして、時間もお金も自然と増えていくのである。少ないことは豊かなのだ。

モノに感情を使う時間があるならその感情を大切な人に使おう。

そして、今一度あなたのモノはあなたにとって本当に機能的なのかチェックしてみよう。

モノに感情ではなく機能を求めよう。

Saika Yuta
written by

1987年生まれ。小学1年でバレーを始める。小·中学校時には計4回全国大会に出場。中学3年時は香川県代表の主将としてJOC出場。高校では、進学校にて春高出場を目指す。大学進学を機にバレーから離れるが高校教員となりバレー指導に没頭するように。そんな日々の中、バレー選手になるという夢を諦めきれていない自分に気がつき、教員を辞めバレー選手となるためドイツ·ベルリンへ。生活基盤が整い始めた矢先、息子が大怪我をして急遽帰国。息子の回復後は北海道へ移住しクラブを設立し、コーチングを生業とするように。その後、縁あって仙台市を拠点に活動するリガーレ仙台(当時:V2リーグ)のヘッドコーチに就任。ワンシーズン指揮を執る。2024年7月より、シンガポールの育成クラブにてコーチング活動に従事。

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