時給、日給、そして月給という概念がなくなる日がやってくる

アイディア

「時給1050円!?えっそれめっちゃいいやん。仕事も楽そうやし!」

大学時代にこんな会話をしていた記憶がある。ちなみに私は某コンビニエンスストアで、750円くらいで働いていた。僕は大学時代に時給労働で様々な仕事を経験した。

また、時給よりももう少し長いスパンの労働に対して支払われる「日給」という給与支払方法もある。これは音楽フェスのバイトなどが一つの例として挙げられるだろう。

こうして、僕は大学時代に時給や日給という給与支払形態に慣れたところで、企業に就職した。当時はリーマンショックが起きた時期で正社員としての就職は絶対条件といった思い込みが強くあった。そして、無事正社員として就職が決まり、月給○○万円という形式で給料が支払われることにはなんの疑問も持たなかったのである。

こうして社会人一年目を過ごすわけであるが、何の疑問を持つこともなく自分の時間と引き換えに生活の糧となるおお金をもらうといった社会の常識に慣れていったわけである。

しかし、今一度考えてみたい。被雇用者として働いた人が一度は感じたことのある心の声をここに記したい。

「あの人、自分より仕事してないのに自分より給与たくさんもらってる。」

よくない感情ではあるが、こうした感情を誰もが抱いたことはあるのではないだろうか。さて、この感情が湧いてくるのはあなたが意地悪い人だというわけではなく、また「あの人」が悪いのでもない。その給与の支払い方がまずいのではないだろうか。

時給。日給。月給。…そうだ!

雇用される限りは基本的には自分の労働時間をお金と交換しているのである。仕事の成果とは無関係に(もちろん、完全にすべての企業や組織がそうではないが)

一般的には、年月が経つにつれ、被雇用者のスキルは緩やかな比例グラフのように向上していくと想定され、賃金はゆるやかに向上していくことが多い(もちろん、企業・組織によって差異がある)。しかし、人間のスキルというのは、数学の授業で使用される綺麗なグラフのようには伸びていかない。ランダムに変化していくだろう。やる気に満ち溢れ、圧倒的に成長している時期があれば、そうでない時期もあるし、体調を崩して十分に働けないといったこともあるかもしれない。

何を言いたいのだ?となってきそうなので、結論を。

労働時間とお金を交換するという仕組みはちょっと無理があるのではないだろうか。

こういったことを言うと、たくさんの反論をいただくことは容易に想像できる。

「雇われていれば、先々の生活に見通しがつく。たくさんのお金よりも先々の保証が大事だ。」など。

こうした意見も非常によく理解できる。しかし、一個人の意見としては、真剣に取り組んだ自分の仕事の成果を正当に評価してほしいし、それに対する報酬はきちんと受け取りたい。また同時に、一定時間働いたという事実に対して成果が出せていないとき報酬を受け取るということに対しても少なからず抵抗感がある

組織が大きくなればたくさんの人が必要で、効率的に組織が動くためにシステムも必要になる。「労働時間に対してお金を支払う」というものも一つのシステムである。このシステムが効果的なのは、工場労働等の誰がやっても成果に差がでない場合等である。しかし、こうした単純労働は機械がやってくれる(ようになってきている)。

「AIによって人間は仕事を奪われる」というフレーズを誰もが口にするようになった今、最終的に残る人間の仕事は労働時間とその成果が比例しないものだと思う。

Saika Yuta
written by

1987年生まれ。小学1年でバレーを始める。小·中学校時には計4回全国大会に出場。中学3年時は香川県代表の主将としてJOC出場。高校では、進学校にて春高出場を目指す。大学進学を機にバレーから離れるが高校教員となりバレー指導に没頭するように。そんな日々の中、バレー選手になるという夢を諦めきれていない自分に気がつき、教員を辞めバレー選手となるためドイツ·ベルリンへ。生活基盤が整い始めた矢先、息子が大怪我をして急遽帰国。息子の回復後は北海道へ移住しクラブを設立し、コーチングを生業とするように。その後、縁あって仙台市を拠点に活動するリガーレ仙台(当時:V2リーグ)のヘッドコーチに就任。ワンシーズン指揮を執る。2024年7月より、シンガポールの育成クラブにてコーチング活動に従事。

FOLLOW ME
アイディアライフ
FOLLOW ME
タイトルとURLをコピーしました