バレーボールとは何か(バレーボールというリクリエーション〜)#7

バレー

バレーボールというリクリエーション

ここまで読んでいただけたのであれば、バレーボールの誕生が奇跡的な出来事の連続であったという事実を分かっていただけたのではないだろうか。ここからは、どのようにしてバレーボールというスポーツが開発され発展してきたのかをしっかりと眺めていきたい。

モルガン氏がバレーボールを開発しようとしたきっかけは、先述した通りで体力的に高水準にある若者だけではなく、広い世代の人々が楽しんで取り組めるようなスポーツが必要であるという認識から生まれた。そして、彼はバレーボールの開発において最も重要なコンセプトの一つにリクリエーション(re-creation:再創造)であることを据え置いた。この点は、ネイスミスがバスケットボールを開発した際に重きを置いたコンセプトと同様である点は大変興味深いところであり、決して偶然ではない。モルガンはネイスミスの影響を多分に受けていたのである。

広い世代のニーズを満たすスポーツを開発したいというモルガンの情熱、そして彼の優しい想いから生まれたバレーボールには、どんな世代の人でも、どんな場所でも、そして何人でも、楽しめるチームスポーツであるという特長があるのだ。

こうして、モルガンは自らのスポーツ経験や指導経験、そしてリクリエーショナル・スポーツ(再創造されたスポーツ)というコンセプトを大切にしながら、後々バレーボールと呼ばれることになる「ニュースポーツ」開発に打ち込んでいくわけである。

思考錯誤と試行錯誤の連続の先に

「ニュースポーツ」開発において、モルガン氏は既に実存していたスポーツからインスピレーションを得ようと試みた。彼は広い世代のニーズを満たすスポーツという観点からテニスというスポーツから何か良いヒントを得られるのではないかと考えた

しかし、そこで彼の頭に引っかかったのはラケットという道具がプレーするために必要であるという点であった。ラケットがないとプレーできないというのは彼の「誰にでも気軽に楽しんでもらえるスポーツを開発したい」という想いに反したようである。

ただ、その一方でテニスの「ネット型スポーツ」というアイディアには心魅かれるものがあったのも事実であったネットの存在が相手チームとのボディ・コンタクトを防いでくれる。そして、紐さえあればネットはどこにでも張ることができる。そんなふうにモルガン氏は考えたのだろう。

そして、彼は当初ネットの高さを6インチ(198センチ)、当時のアメリカ人男性の身長よりも少し高いくらいの高さに設定したのであった。そして、次はボールである。どのようなボールを使用するのかには彼も大変苦心したようだ。

「ニュースポーツ」開発にあたりバスケットボールからも着想を得ていたこともあり、当時バスケットボールで使用されていたボールの内側のゴム製の空気袋だけを取り出しそれを使用していたのだが、ボール自体があまりに軽く、ボールの動きがあまり遅すぎるという課題があった。そのため、バスケットボールをそのまま使用してプレーすることも試みたが、あまりに大きく重いためバレーボール競技には最適であるとは言えなかったようだ。

そこで、モルガンは当時バスケットボールの公式球を製造していたスポルディング社にバレーボールの公式球製作を依頼するに至るのであった。1895年のことである。

スポルディング社はそれまでにベースボールにアメリカンフットボール、そしてバスケットボールを開発してきた実績と技術を擁していた。そして、モルガンからの熱いオファーに応えて世界で初めてバレーボール専用ボールを開発したのである。

初期のボールは周囲25~27インチ(63.5~68.6センチ)、重さは9~12オンス(252~336グラム)であった。こうした正式なボールの開発がバレーボールの発展を一気に加速化させたということは言うまでもないだろう。現在に至ってはスポルディング社製のバレーボールを日本で見ることはほぼないに等しいが、スポルディング社の存在なくしてバレーボールの今日までの発展はなかったと思うとなかなかに感慨深いものがある。

また、現代においてもボール開発は現在進行中であり、数年おきにボールも進化しリニューアルしてきている。これはボール型スポーツにおいて、ボールそのものがプレーヤーのパフォーマンスに与える影響が非常に大きいということを示しているとも言えるだろう。

先述したバスケットボールの生みの親であるネイスミス博士は、ボール型スポーツにおけるゲーム難易度はボールのサイズに反比例するという独自の理論を持っていた。サイズという一要因だけで言い切れるかどうかは分からないが、やはりボールそのものがそのスポーツに与える影響は甚大であるということは間違いなさそうである。

こうして、バレーボールゲームの大枠とプレー環境(ネット・ボール)の整備をしたモルガン氏は二人の友人とともに基本的なゲームコンセプトを10個のルールとともに創り上げていくこととなる。こうして思考錯誤と試行錯誤を何度も何度も繰り返しながらバレーボールは徐々に世界中で愛されるスポーツとして確立されていくのである。ひとりの体育教師の熱い想いが少しずつ実り始めるのである。

Saika Yuta
written by

1987年生まれ。小学1年でバレーを始める。小·中学校時には計4回全国大会に出場。中学3年時は香川県代表の主将としてJOC出場。高校では、進学校にて春高出場を目指す。大学進学を機にバレーから離れるが高校教員となりバレー指導に没頭するように。そんな日々の中、バレー選手になるという夢を諦めきれていない自分に気がつき、教員を辞めバレー選手となるためドイツ·ベルリンへ。生活基盤が整い始めた矢先、息子が大怪我をして急遽帰国。息子の回復後は北海道へ移住しクラブを設立し、コーチングを生業とするように。その後、縁あって仙台市を拠点に活動するリガーレ仙台(当時:V2リーグ)のヘッドコーチに就任。ワンシーズン指揮を執る。2024年7月より、シンガポールの育成クラブにてコーチング活動に従事。

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