バレーボールとは何か(「自由遊び」から「リクリエーション」へ〜)#6

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「自由遊び」から「リクリエーション」へ

リクリエーション(”re-creation”)として誕生したバスケットボールではあるが、当時の社会的背景として南北戦争(1861~1865)の存在は決して見逃せない

南北戦争とは、当時アメリカの北部(自由州)と南部(奴隷州)の激しい対立によって行われた大規模な内乱として位置付けられている。そして、この内戦が終了した後の社会変動は凄まじいものであったようである。戦前から始まっていたアメリカにおける産業革命のさらなる急発展とともに都市化が進み、それに伴う格差による貧困問題や青少年の非行、以前から歴々と存在していた黒人差別問題などまさに問題は山積みであったのだ。

そんなカオスともいえる状況を憂い、次世代を担う子どもたちを守り育てる環境が必要だとの意識が人々の間に生まれ始めたのであった。

そして、こうした意識の具現化の象徴がアメリカ各地にでき始めた公園の存在である子どもたちが安心して遊べる環境が整い始めたことを皮切りにしてそこでは自由遊びが生まれ、次第にそうした遊びはより創造的なリクレーション活動へと発展していったのである。そして、これらの活動は学校教育現場、地域社会全体へとさらに広がりを見せていくのである。

子どもが安心して自由遊びできる環境を整えるという想いがきっかけとなって、そこから世代をも超えたすべての人々を夢中にさせるリ・クリエーション活動へと発展していくのである。

バレーボールの創始者。ウィリアム・G・モルガン

さて、ここまでバレーボールの歴史を紐解くためにその親とも言えるバスケットボールがどのような社会背景の元で誕生したのかを見てきた。ここからはバレーボールの誕生の物語を見ていこう。

まずはバレーボールの誕生に最も多くの貢献をしたであろう一人の男性に視線を注ぎたい。彼はウィリアム・G・モルガン。バレーボールの創始者である。

バスケットボールが生まれる約20年前の1870年にウィリアム・G・モルガンはこの世に生を授かった。持ち前の体格の良さを生かして高校時代はフットボール部で大活躍をした。おそらくスポーツが好きな青年であったのだろう。

そして、高校時代に彼の人生を一変させる出会いが訪れる。先述したバスケットボールの創始者であるジェームス・ネイスミスとの出会いである。彼はある大会で大活躍しているモルガン少年をスカウトしたのである。この出会いをきっかけにして、モルガンはスクール・フォー・クリスチャン・ワーカーズ(現スプリングフィールド大学)の門を叩くことになるのだ。

もしもネイスミスがモルガンに目をかけてスカウトしていなかったら。

もしもモルガンがネイスミスのスカウトを断っていたら。

バレーボールというスポーツは存在していなかったかもしれない。

「もしも〜だったら」は歴史に存在しないわけではあるが、こんなことを思ってしまうのは私だけではないはずだ。お酒がまったく飲めない私でも、彼らの出会いに祝福の乾杯をしたい気持ちが抑えられなくなりそうである。

さて話を戻そう。

モルガンは入学後、リクリエーション技術に関する教育を受けることとなる。当時のアメリカにおいてはスポーツを教育の手段とする体育に関心が強く向けられ始めた時期でもあり、グラウンドをフィールドにしたチーム競技が行われるようになっていた。こうした社会的背景もあり、モルガンはYMCA(Young Men’s Christian Association)の体育指導員となってビジネスマン向けの体育の授業を担当するという機会を得るのであった。

後にバレーボールが生まれる直接的なきっかけとなったのが、このビジネスマン向けの体育の授業なのである

その年1895年。バスケットボールが生まれて約5年の月日が経とうとしていたときであった。

当時、バスケットは体育館という恵まれた環境が揃う都市部で、特に若者の間で瞬く間に広がり爆発的な人気を得ていた。そんなニュースポーツの人気が急上昇し始めている渦中にいたモルガンであったが、誰もがバスケットボールに興味を見出しているわけではないということを体育指導員としての立場から敏感に感じ取っていたのである。

「面白く」「覚えるのもプレーするのも簡単」「屋内でできる」といった楽しむための条件が三拍子揃ったバスケットボールではあったが、当然ながらデメリットもあったのである。そのデメリットについて彼は次のようなことを感じていたようだ。

バスケットボールは若い人たちのニーズを満たすことはできるが、激しいボティ・コンタクトがあり、身体的負荷が高い。若くはない人たちにとって適したスポーツとは言えない部分がある。

このような感覚を彼が持つようになったのは、彼が指導対象としたクラスが当時のビジネスマン向けであったことが多分に影響しているに違いない。

彼らのような中年のビジネスマンでも思い切り楽しめるスポーツはないだろうか。

こうしたウィリアムの体育指導員としての飽くなく向上心とささやかな「違和感」がバレーボールというスポーツを生み出したといっても過言ではないのである。

Saika Yuta
written by

1987年生まれ。小学1年でバレーを始める。小·中学校時には計4回全国大会に出場。中学3年時は香川県代表の主将としてJOC出場。高校では、進学校にて春高出場を目指す。大学進学を機にバレーから離れるが高校教員となりバレー指導に没頭するように。そんな日々の中、バレー選手になるという夢を諦めきれていない自分に気がつき、教員を辞めバレー選手となるためドイツ·ベルリンへ。生活基盤が整い始めた矢先、息子が大怪我をして急遽帰国。息子の回復後は北海道へ移住しクラブを設立し、コーチングを生業とするように。その後、縁あって仙台市を拠点に活動するリガーレ仙台(当時:V2リーグ)のヘッドコーチに就任。ワンシーズン指揮を執る。2024年7月より、シンガポールの育成クラブにてコーチング活動に従事。

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