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ライフ・ワークはバレーボール探求。本サイトでは、バレーボールに関する情報を発信しています。また、バレーボール・アカデミーの経営・コーチングをしています。

【資格】国際バレーボール連盟(FIVB)公認コーチ Level2/日本スポーツ協会 コーチ4/バルシューレジャパンC級指導者/中高教諭1種免許(英語)

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スポーツとは何か

スポーツとは何か?

とてつもなく壮大かつ抽象的な問いを立ててみたい。なぜなら、私の大好きなバレーボールの本質を探る上で必ず押さえておくべき問いだと思ったからである。

私たちは普段から自然に「スポーツ」という言葉を使っている。スポーツの例を10個挙げてみてと言われるならば、特に困ることもなく容易に誰でも答えることが可能だろう。

しかし「スポーツとは何か?」と問われると、誰もが自信を持って答えることは難しいのではないだろうか。バレーボールもスポーツの一つであるが、柔道もスポーツであり、マラソンもスポーツ。こうして、スポーツ種目を一つずつ挙げていけば、それらの中に幾ばくかの共通項を見出すことはできそうではあるが、これだけではスポーツとは何かという問いに対して答えを出すにはあまりにも不十分なのである。

スポーツを定義する

ここでひとまず、スポーツの定義についていくつか見ていこう。様々な定義が存在するわけだが、まずはスポーツ庁が定義するスポーツについて見てみよう。

スポーツとは…身体を動かすという人間の本源的な欲求に応え、精神的充足をもたらすもの

スポーツ庁が考える「スポーツ」とは?Deportareの意味すること

スポーツとは何かが分かるようで分からないというのが正直な感想である。

抽象的でフワッとした印象を受け、スポーツに対する認識は各人バラバラになりそうである。あえて抽象的な表現にすることで、スポーツについて考えてもらうきっかけを提供しようという狙いがあるのかもしれないが、この定義だけでは、スポーツが何かという問いに答えるには情報が足りないような気がする。

ただ、個人的には「人間の本源的な欲求に応え」という箇所には心惹かれるものがある。それは、スポーツはただの余暇活動に留まらず本源的な欲求、つまり人間の本質に関わるものであるというニュアンスが読み取れるからだ。

個人的な感想はここまでにして、他の定義に視点を移していこう。次に紹介するのはブリタニカ国際大百科事典での定義だ。

スポーツとは…競争と遊戯性をもつ広義の運動競技の総称。激しい身体活動や練習の要素を含む。語源はラテン語 deportareからフランス語 desporterに転じ,さらに英語 sportとなった。本来,人間が楽しみと,よりよき生のためにみずから求め自発的に行なう身体活動であり,ルールを設けそのなかで自由な能力の発揮と挑戦を試み,最善を尽くしてフェアプレーに終始することを目標にする。今日のスポーツ競技の多くは古代ギリシアの祭典競技に発しているが,スポーツということばは 15世紀前半のイギリスで生まれた。当初は貴族階級の遊びの意味が強かったが,19世紀後半の近代オリンピック (→オリンピック競技大会 ) の創設により,現在のスポーツ競技が成立した。種類は球技・格技・体操競技・陸上競技,あるいは個人スポーツ・対人スポーツ・集団スポーツ,室内スポーツ・野外スポーツなどに分類される。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

なかなかマニアックな百科事典を引用してきたなという印象を受けた読者も多いだろう(私もそう思う)。そして、定義としてはいささか長いようにも感じたのではないだろうか(私もそう思う)。

これらのことはさておき、ここでの定義からはスポーツを客観的・哲学的・歴史的観点からできる限り簡潔に表現しようという意志を強く感じ、個人的はとても好きである。スポーツの語源にも触れており、スポーツが辿ってきた長い歴史に対するリスペクトも感じる。さらに具体性を帯びた言葉を取捨選択している。

もう一度言うが私はこの定義が好きである。

さて、ここまで2つのスポーツにおける定義に触れてみた。できるのであれば、もっと多くの定義についても触れていきたいところではあるがキリがないので本章ではここまでに留めておく。まだ自分にしっくりくる定義がないというのであれば他の辞書やスポーツ団体が定義しているスポーツについて調べてみるとよいと思う。もしくは自分なりに定義してみるという取り組みがあってもいいとも思う。

何にせよ、いくつかの定義を知り、自分の頭で思考錯誤してみることでスポーツとは何かという問いに答えるためにはどんなアプローチが必要そうなのかなんとなく分かってくるものだ。

定義について真剣に考え始める前まではなんとなくスポーツはこうであるみたいなものがあったと思うが、真剣に始めたところからスポーツって一体全体何なんだろう?という疑問が沸々と湧いてきたのではないだろうか。もしそうであれば、私としてはうれしく思う。少なくとも私については定義について考え始めてからはスポーツが何なのかということがますます分からなくなり、もっとスポーツについて知りたいという欲求が湧いてきた。

前置きが長かったが、ここからはスポーツの本質を探す旅に出かけよう。新たな船出である。

スポーツの語源

先に触れた2つ目の定義の中にスポーツの語源に触れている箇所があったのを覚えているだろうか。どの言葉にもやはり語源というものが存在しており、その語源を紐解くことはその言葉が意味しているものの本質に迫る上でとても重要な役割を果たす。ここではスポーツの語源についてもう少し深堀りしていきたい。

スポーツの語源は、ラテン語のデポルターレ(de-portare)にある。

これは結構有名な話ではあるが、もう少し言うとこのラテン語は2つに分解できる。「de」と「portare」である。そしてこれらを英語に訳し直すとすれば 「de = away(離れる)」「portare = carry(運ぶ)」となり、「離れたところに運ぶ」となる。これは、人間が生きる上で必要不可欠なこと(日常=衣食住)から一時的に離れること、つまり「気晴らしをする」「休養する」「楽しむ」「遊ぶ」などを意味する。

この語源を知り、しっかりと腹落ちさせておくことはスポーツという概念を理解する上で極めて重要だろう。誤解を恐れずに言うなら、この語源を知ることはスポーツの本質を半分程度抑えることに繋がるといっても過言ではない。日常から離れて気晴らしをして楽しむ。これがスポーツなのだ。

さて、語源についての理解が深まったところだと思うが、ここで好奇心旺盛な読者であればおそらく次なる疑問が浮かんでくるのではないだろうか。この語源にはどのような歴史的な背景があるのだろうかという新たな問いである。

学問的アプローチからスポーツを捉える

スポーツの語源の背景を知るにはやはり、スポーツの成り立ち、そしてその歴史を学ぶというプロセスが必須となる。そこで、ここでは2つの学問的なアプローチをとりたいと思う。一つ目がスポーツ史で、二つ目がスポーツ人類学である。

では、まずスポーツ史について簡単に説明しよう。スポーツ史とはスポーツの歴史。スポーツ、そしてスポーツに関わる一切について歴史的な視点から研究する学問分野のことを指す。スポーツの歴史的変遷を学んでいく過程で、スポーツの今が浮き彫りになっていく。

そして、”スポーツが人間にとって一体どういった存在なのか”というかなり本質的な問いに対して答えようとするきっかけが生まれる。さらに、スポーツと人間の関係性を紐解いていく中で“人間とは一体何なのか”というもはや人生哲学とも言わざるを得ない問いに答えようとするのがスポーツ史を学ぶことの目的である(と思う)。

では、次にスポーツ人類学について説明しよう。スポーツ人類学とは、スポーツ科学の一専門分野であり、スポーツを文化として捉えるという立場にある。ただ”文化”という言葉を解釈するにしてもその意味の捉え方は極めて多様であり、狭義・広義を含めて人によって解釈の仕方にかなりの差異が出てくる。スポーツ人類学においての文化の解釈は「一定の人間集団の生活様式の全体」である。ここでの解釈において文化とは価値概念ではなく、人間の生活に基づく実態を伴ったものであり、何かと比較をして優劣を決めようする態度とは全くもって無縁の世界であるのだ。 

上記をまとめると、スポーツ史およびスポーツ人類学といった2つの学問的アプローチに共通しているのは、スポーツと人間との関係性に注目して、私たち人間がいかなる存在なのかを見出そうとするとても壮大な営みであるということだ。

現代において、スポーツに対する世間の関心は、健康や教育といった視点からも年々、高まりつつある。特に日本においてはスポーツ界にある課題や問題が浮き彫りになることが増え、今まさにスポーツの価値、スポーツとは何かということが問われるようになっている。そんな問いに答えようとするのであれば、これらの学問的なアプローチをとるのは極めて有効であるだろう。

スポーツの始まりを知り、その変遷を知ることがスポーツの今を知ることに繋がり、ひいてはスポーツそのものの存在を自分なりに定義することに繋がっていくことになるだろう。こうした一見、非効率的な営みが長期的に見ればスポーツの価値を高め、未来の人類にとって偉大な文化を継承していくといったことにも繋がるのではないだろうかと考えている。

スポーツの起源

ここからは、学問的なアプローチとしてスポーツ史、スポーツ人類学の視点からスポーツの歴史に迫っていくこととする。先に断っておくと著者は学者でもなければ研究者でもないバレーボールが大好きな中年おっさんである。そのことを、頭の片隅に置きながら私の分析や考えを読んでいただけると幸いである。

それではまずはスポーツの起源について探っていこうと思う。スポーツの起源を調べてみると諸説あり、記録として残されているものでも古いもので先史時代までに遡る(ドヒャー)。先史時代からスポーツが存在していたということには驚きを隠せない。人類は文明や文化を長年かけて発達させ、今や不必要で重荷ですらあるようなもの(技術・社会の仕組み・テクノロジーなどあらゆるもの)を生み出してきた。

しかし、スポーツは先史時代には既に生み出されていたのである。このことが意味するのはスポーツがいかに人類にとって“必要不可欠であったという紛れもない事実ではないだろうか。

さて、スポーツの起源というところに話を戻そう。

記録されたものという条件でいうと初めてスポーツとして実施されたもので有名なものがレスリングである。ある文献によると紀元前1700年〜紀元前1400年頃(古すぎてとってもざっくり!)、古代ギリシャにおける人気競技のひとつであったようだ。地中海に浮かぶクレタ島で行われていたという記録が残っている。また、だれもが歴史の授業の中で四大文明として学んだであろう古代エジプト(エジプト文明)でも、レスリングが行われていたことを示す壁画が、ナイル川東岸にあるベニハッサン村の洞窟で発見されているのだ。この壁画は紀元前2100年頃のものと推測されており、先に紹介した古代ギルシャの記録よりもさらに古いものである。

このように遥か昔の先史時代から今に至るまで脈々と途絶えることなく人類とともに歩んできたスポーツの歴史に想いを馳せると、そこには感動さえ生まれる。そして、スポーツと人間の間には切っても切れない「何か」が存在するということを感じずにはいられないのだ。

スポーツの発端は狩猟という日常

さて、スポーツの起源について知るとそこにまた新たに疑問が生まれる。なぜスポーツを先史時代の人類は始めたのかという疑問だ。スポーツの発端はどこにあるのだろうか。その手がかりは先史時代に行われるようになったスポーツの特性やその時代の人々の生活様式にある。

まず先史時代に行われたスポーツについて見ていこう。先述したように、自らの力を誇示するためのレスリングなどの格闘技や重量挙げ、獲物を射るための手段として必要とされる弓や槍投げ等がそれに該当する。

次に先史時代における人々の生活様式だが、当時の生活楊様式は現代とは全く異なっている。「食べることが生きること」とも言えるような世界。無論、農耕技術などもまだ存在しておらずその日暮らしの日常が続いていたと推測できる。今日のための糧を得るために狩猟という手段を講じて自分よりも大きい生き物を仕留めたり、自分よりも速い生き物を射止めたりしながら、日々を生きていたのである。

さて、もう勘の良い読者であれば分かっていただけたのではないだろうか。スポーツが生まれた発端は狩猟活動にあるのだ。先史時代の人々にとっての狩猟とは日常そのもので、そうした日々の日常から少し離れるための手段としてスポーツが自然発生的に生まれてきたのである。

彼らがスポーツをする目的には、生活力、ひいては繁殖能力の顕示というものが存在していたとも想像できるが、ただそれだけではなく狩猟という日常、狩猟という生きるための労働から離れて気晴らしをして楽しむという目的も確実にそこに存在していたのではないだろうか。先史時代の人類にとってもスポーツはやはり非日常であり気晴らしであり楽しみであったのだ。

競技スポーツ誕生のきっかけ

スポーツの発端が狩猟という日常にあり、その日常から離れることからスポーツが始まったということについては先に触れた通りである。では、ここまで触れてきたいわゆる原始的スポーツが現代における競技性を持ち合わせたスポーツに至るまでの歴史的な変遷を眺めていきたいと思う。

ここでまず考えるべきことは、いわゆる原始的なスポーツが競技性をもったスポーツへの変化を遂げたきっかけが何であったのかを考えることではないだろうか。原始的なスポーツにも競技性が存在していたとは思うが、明確なルールと勝敗に基づく競技スポーツが生まれたきっかけは古代オリンピックにあると言えるだろう。古代オリンピックは記録として残される競技スポーツの祭典としては最古のものであると言ってもよいだろう。

では、古代オリンピックとは何だろうか。古代オリンピックとは古代ギリシアで行われていたオリンピア祭典競技のことを指す。そして、近代オリンピック(現在のオリンピック)に対して使用される用語でもあり、かつ近代オリンピックの礎となったものでもある。そして、古代オリンピックは考古学的研究によると、紀元前九世紀頃に始まったとされる。当時、古代ギリシアは文明的にも極めて成熟しており、現代ヨーロッパ文化の礎を創ったとも言われている。それほど文明的に極めて豊かであった土地にオリンピックのルーツが存在しているのだ(なんとも興味深い)。

次に、どのような理由から古代オリンピックは始まったのかを考えていきたい。この点については諸説あるのだが、最も有力な説として宗教的儀式として古代オリンピックが始まったというものである。

当時、古代ギリシアを中心に広がっていた宗教は多神教であった。神々の中には序列があり、その頂点にいたのが主神ゼウスであり、他の神々を支配していたとされている。そして、一神教のキリスト教のように預言者も、経典(聖書)も、教会も、そして神からの啓示といったもの一切存在しなかった。そのため、神々の存在を証明するための儀式として神託(神からのお告げ)を伺うという行為を継続的に行う必要性があったのだ。つまり、古代オリンピックの位置付けとは神からのお告げを伺うという継続的行為、つまり儀式であったのだ。神々と繋がろうとするための行為であったとも考えられるのである。

古代オリンピックの競技とした行われたスポーツの目的の中には原始的スポーツのそれとは明らかに異質なものが存在していると分かる。儀式として行われることによって、ルールと勝敗というものがそれまでの原始的スポーツよりもより厳格に設定されるようになったことがその大きな要因とも言えるのではないだろうか。
また、近代オリンピックが世界平和を目的としたスポーツの祭典であることと比較してみると古代オリンピックの位置づけが大きく異なっていることに驚かされる。

古代オリンピックから近代オリンピックへの進化

ここからは、どのようにして宗教的儀式としての古代オリンピックが世界平和を目的とした近代オリンピックへ進化していったのかを考えていく。この進化を知ることは、スポーツの本質をさらに深く理解することに大きく寄与する。

ここでは、敢えて「進化」という言葉を使ってみたのだが、そこには意図がある。

変化や変遷という言葉からは緩やかに移り変わっていくといった印象が持たれるように思うからである。しかし、実際のところは古代オリンピックの終焉(第293回大会:紀元393年)から近代オリンピックの誕生(第1回大会:紀元1892年)までには約1500年という気が遠くなるような歴史的断絶があった。そして、その歴史的断絶からある人物の燃えたぎる熱意と圧倒的な行動力が圧倒的スピード感で近代オリンピックを誕生させたのである。だからこそここでは敢えて「進化」という言葉を使わせてもらった。

では、ここに登場してくるある人物について考察を深めていこう。

現代のオリンピックの礎となる近代オリンピックの開催を提唱した人物である。彼の名はピエール・ド・クーベルタン。フランス人男性である。彼なしにオリンピックについて語ることはできない。

近代オリンピックの父と呼ばれる彼であるが、貴族の家系の三男としてフランス・パリに生まれた。貴族という恵まれた身分に生まれた彼であったが、普仏戦争(1870〜71)の敗戦による国全体を取り巻く停滞感を敏感に感じ取りつつも、その状況を打開したいと悶々としていた。

そして、次第にその現状を打破するには教育改革が必要であると考えるようになる。そこで彼は、海外の教育視察のために渡英。そこで見たものが、彼に衝撃を与えた。彼の人生、そしてスポーツの歴史を変えたといっても大袈裟ではないだろう。そこには、イギリスの学生たちが積極的、かつ紳士的にスポーツに取り組む姿があった。「自国フランスの知識偏重教育ではこうした青少年は育ってこない。」こうした確信からスポーツを取り入れた教育改革がフランスには必須だと彼は確信するに至るのである。

そしてそして、その後も彼は諸外国への視察を続け、アメリカに至る。そこではヨーロッパに見られるような階級や伝統・慣習に捉われないアメリカ社会の自由な在り方に感銘を受け、次第にそこで経験した社会を古代オリンピックがかつて大昔繁栄した古代ギリシャ社会と重ね合わせて見るようになったのである。

彼の強い愛国心と圧倒的な行動力、そしてその圧倒的な行動を通じての原体験があってこそ、近代オリンピックの誕生、敢えて言い換えるなら古代オリンピックの復活という奇跡が起こったとも言える。一人の熱い想いをもった青年の情熱が古代オリンピックの終焉から約1500年もの年月を経て近代オリンピックの誕生をもたらしたのである。

宗教的儀式としての古代オリンピックから世界平和を目的とした近代オリンピックへの進化のほんの一部始終をここまで眺めてきた。ここでスポーツの本質を考える上で最も注目すべきポイントはピエール・ド・クーベルタンがスポーツを教育の手段として捉えていたという点だと筆者は個人的に思っている。今でこそスポーツ教育という言葉が一般的に使われているが、100年以上前に、スポーツを教育の手段として捉え、それによって国をよりよくしたい、さらにそこから発展し世界を良くしていきたい(世界平和)という考えに至ったということに対して尊敬と感謝の念を抱かずにはいられない。

スポーツの本質に触れるにあたってオリンピックの歴史を知ることは大変重要であるとの認識からここでは、オリンピックの「進化」について触れた。ただ、最後に一点誤解のないように付け加えておきたいのは、古代オリンピックの終焉から近代オリンピックの誕生までの約1500年の間にもスポーツは人類にとって欠かせない「隣人」として歴然と人類とともに存在し続けていたということである。

スポーツの本質はどこにあるのか

さて、ここまでスポーツの語源・起源・発端・古代オリンピックから近代オリンピックへの進化といった様々な視点からスポーツの本質を探る旅をしてきた。旅というと少し大袈裟でスポーツの歴史に対して敬意を払うのであれば「遠足」程度のものである。これで十分にスポーツのことは理解したと思ってほしくはない(私自身書いていく中でさらにスポーツについて知りたい、考えたいと思うようになった)。

ただ、こうして様々な視点からスポーツとは何かということを考察して分かることは、先史時代から「普遍」なものもあれば、時代を経て少しずつ、場合によっては劇的に「変容」してきたものもあるということである。

「普遍」という視点から見てみると、どの時代においてもスポーツとは日常から離れて楽しむものであるということは普遍と言えるのではないだろうか。また、時と場合によって「変容」してきたものとしては、スポーツが何のため(目的)に存在してきたのかということである。

それは、自らの力を誇示するためであったり、宗教的な儀式としてのものであったり、教育のためであったり。また、世界平和を目指すためのものであったり、健康を維持するためのものであったり…。こうして考えてみると、スポーツの目的というのは「諸行無常」なのだ。こうした様々な目的を包括することができるのがスポーツであり、スポーツの魅力であり、スポーツと人類を切っても切れない関係にしている大きな要因なのではないかと思うのだ。

最終結論というふうにこの旅を締めくくれるとは決して思っていないが、この終わりなき旅を小休止するためにも、一度スポーツの本質について敢えて断定的にまとめてみたいと思う。

スポーツの本質とは「日常から離れて楽しむものであるという普遍性」と「時と場合によって多様な目的を同時多発的に持たせることができる変容性をいつも持っているという普遍性」である。

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