スポーツの育成カテゴリーにおける勝利至上主義にとって替わるモノはあるのか

スポーツ界において部活動での体罰事件など、負の部分がメディアなどで多く露出することをきっかけにし、スポーツ界の育成カテゴリーにおける勝利至上主義の問題について語られることが最近多くなってきたように思います。

そして野球界では、桑田真澄元選手を筆頭に現DeNAの筒香嘉智選手といったトップカテゴリーのアスリート達が声をあげ、育成カテゴリーにおける行き過ぎた勝利至上主義に対して警笛を鳴らしています。

桑田真澄 日大アメフト部事件と「スポーツの品格」 「これは、アメフトだけの問題じゃない」

参考書籍:スポーツの品格 桑田真澄/佐山 和夫 (著)

DeNA筒香嘉智「子供の将来がつぶれる」勝利至上主義に警鐘

本記事では勝利至上主義について考え、それに替わる主義を探っていければと思います。

勝利至上主義とは何か?

勝利至上主義とは、スポーツ競技などにおいて対戦相手に対して勝つことを絶対的目標(最優先事項)とする考え方を指します。

スポーツは勝敗をかけて戦う以上、勝ちを目指すことが当たり前のことだとも言えます。特にプロスポーツという領域において、アスリートの仕事は試合に勝つことです。この領域において勝利至上主義が存在していることは当然のこととも言えます(もちろん、アンフェアなプレーやドーピングといった違反行為は許されないという前提のもとです。)

一方で、プロスポーツではないアマチュア、特に育成カテゴリーの現場では、勝利至上主義が蔓延し、様々な弊害が起こっているというのが現状です。

ここからは”育成カテゴリーにおける勝利至上主義”に範囲を絞って書いていきたいと思います。

勝利至上主義がもたらす弊害は何か?

では、勝利至上主義がもたらす弊害とはどのようなものがあるのでしょうか。

行き過ぎた指導

真っ先に思いつくのが、指導者による行き過ぎた指導です。指導者による体罰やいじめによって、最悪のケースとして命を落とす選手が出てしまったことも過去にメディアで大きく取り上げられました。また、指導者が選手に対してアンフェアなプレーをすることを強要し、相手選手に対して大きな怪我を負わしてしまうというケースも大きなニュースとなりました。目の前の勝利だけを盲目的に最優先する勝利至上主義的な考えが、指導者を冷静に考えればあり得ないと思えるような行為に至らせたとも考えられるのではないでしょうか。

選手生命を絶つ怪我の誘発

「その」カテゴリーにおける試合での勝利を最優先にすることによって、選手が異常なまでのオーバーワークを強いられる。そして、身体に致命的な怪我や障害を抱え、早い段階で選手生命を絶たれてしまうといったケースが多くのスポーツ育成の現場で日常的に起こっているように思います。特に小・中学生期の身体の発達が十分でない時期に身体の同じ部位ばかりを酷使し、その結果スポーツを続けることができなくなるといったケースも起こっており、指導者の責任は重いものがあります。

バーンアウト

「その」カテゴリーにおける試合での勝利を最優先にすることによって、日常生活のほとんどの時間を一つのスポーツに費やすという状況が起こっています。そうした状況に陥ると、初めは自発的に楽しくて取り組んでいたものが次第に義務感ややらされ感へと繋がっていきます。そして、当初抱いていたスポーツへの興味や関心が失われ、最悪の場合スポーツをすることへの意欲を失い、スポーツから離れてしまうといったケースも育成の現場では起こっています。

タレント育成の機会喪失

「その」カテゴリーにおける試合での勝利を最優先にすることによって、「その」時点において勝利にすぐ役立つ選手だけが、指導の対象にされるといったことが起こりがちです。

例えば、バレーボール競技で言えば、背の高い選手(つまり、攻撃力が高いだろう選手)にはアタックとブロックの練習を徹底的にさせて、背の低い選手(つまり、攻撃力が低いだろう選手)にはアタックやブロック練習は一切させず、レシーブ練習だけさせるといった具合です。

このように「その」時点だけの状況から、その選手の能力を判断し指導をすることで、選手の持っているタレント(才能)を育成する機会を喪失してしまっているのです。

また、「その」カテゴリーにおいて、競技をスタートさせたタイミングが遅かった選手はコーチの指導対象とはならず、本来その選手が持っているタレントが引き出されないまま、そのカテゴリーでのスポーツ経験を終えるといったこともしばしば起こっていると言えます。

様々な体験機会の喪失

短期的視点で見ると、1つのスポーツ競技における技能向上を目指すのであれば、多くの時間を反復練習に費やすことで一定の「技能向上といった成果」を出すことは可能です。

そのため、早期から1つのスポーツに絞って、練習を積み重ねていくことが尊い、素晴らしいといった価値観が一般的に日本にはあるように感じます。そのため「他のスポーツをやってみたい」といった気持ちがあっても、実際には難しく「2つ以上のスポーツをやってみたい。」とでも言うなら、「それは浮気だ!逃げだ!本気じゃないのか?」とでも言われてしまいそうな風潮があります。

しかし、特にゴールデンエイジ期の子供やまだ神経系の発達が十分でない子供たちにとっては、特定のスポーツだけに取り組むよりも多種多様なスポーツ体験をすることが重要です。色々な運動動作やそれぞれの戦術を学ぶことは、長期的に見ると選手としての伸びしろを生み、より魅力的な選手になる可能性を高めます。

「その」カテゴリーでの短期的な結果を盲目的に追って「その」スポーツばかりに時間を費やすことは、子供たちの将来の可能性を潰してしまうことにつながります。他のスポーツ体験という機会喪失だけに留まらず、家族で旅行に出かける機会や子供たちだけで遊ぶ機会をも喪失することにもなり、人生を豊かにしてくれるような様々な体験機会を失っているという現状を見逃すこともできません。

ここまで育成カテゴリーにおける勝利至上主義の弊害について書いてきましたが、自分で書きながらもこの弊害の影響は計り知れないものだと改めて感じています。

こうした弊害について、ただただ嘆いていても何も変わりませんので、こうした弊害を招く勝利至上主義が蔓延する背景やその理由についてもしっかりと考えていきたいと思います。

勝利至上主義が蔓延する背景には何があるのか?

武道とスポーツの混同

抽象的・概念的な話にはなりますが、日本の武道と海外から輸入されたスポーツの成り立ちを考えてみると勝利至上主義が広がった背景を感じることができます。

まず私が “武道” といって真っ先に思い浮かぶキーワードは「サムライ」です。「サムライ」は江戸時代に「斬るか斬られるか。」というまさに命を賭けた勝負に勝つために「剣道」や「柔道」、「弓道」といった武道に取り組み、その「道」を極めるための厳しい修行に耐え、時には痛みや苦しみを受け入れていたわけです。死なないために。自分の命を守るためにです。

ここまで読んでいただいて分かるように、武道が勝利至上主義に帰結するのは当然のことだと思います。しかし、これに対してスポーツはどのような成り立ちになっているのでしょうか?

それは語源を辿れば直感的に理解できます。スポーツは語源をたどると「気晴らし」であったり「楽しむもの」です。そこには常に「死」と隣り合わせであるという武道の対極にあるようにさえ感じます。

武道とスポーツ。

このように歴史的背景や成り立ち、目的といったものをよくよく観察してみると、これらは似て非なるものであると分かります。しかし、「勝敗がある」という点や、身体性が伴う点などから共通点が多いということもあり、スポーツを武道と混同してしまうといった現象が起こっているのではないかと考えています。

学校教育に内包されるスポーツ

日本の育成カテゴリーにおけるスポーツ活動を学校教育システムの一つである「部活動」がかなり多くの部分担っていると言う点について、反論する人はおそらく誰もいないかと思います。(※日本人にとって「部活」に所属しスポーツをすることはとても当たり前のように感じますが、世界的に見てみると部活動のような育成システムが存在している国はマイノリティーに分類されます。)

しかし、この部活動システムこそが勝利至上主義を生む一つの要因になっているのではないかと思っています。その理由は学校教育という枠組みの中で、教師と生徒という関係性が部活動の中でも存在するからです。

教師と生徒の間には、学校教育のシステム上、どうしても覆すことのできない絶対的な上下関係が存在します。この絶対的な関係性が「目上の者の言動に、目下の者は逆らえない」といった暗黙の約束を生み出し、教師(部活動内でのコーチ)が自己顕示欲を満たすために「生徒(部活動内でのプレーヤー)を使ってなんとしてでも試合に勝ちたい」「最短で勝つには手段(体罰・パワハラ・いじめなど)を選ばない」といった独善的な思考を持ってしまうのではないかと思うのです(※もちろん、すべての教師が上記に記載したような人格ではないということは間違いありません。ただ学校教育という枠組みの中で、スポーツコーチングを行うことが、そうした人格を持ちやすくさせる、あるいはそのような思考に陥りやすくさせると思っています。)

試合の成績が進学や就職に影響する

また、先述した学校教育システムとも関係しますが、試合の成績が選手の人生を大きく左右する「進路決定」に大きな影響を与えているという現状が勝利至上主義を加速させている大きな要因の一つだと考えます。

現状として、試合で好成績を残せば世間的ないわゆる「良い」学校への進学や「良い」企業への就職の道が開けるということは一般的に認識されていると思います。

こうした一般的な認識が「試合で良い成績を残すことさえできれば良い。」「試合で成績を出すまでの過程は重要ではない。」といった偏った考えを指導者、保護者、さらには選手本人にさえも持たせているように思います。

試合での成績が直接、進学や就職に繋がるようなキャリアパスが存在していること自体が非常にこうした頼った、そして歪んだ思考を生んでいると考えられます。

トーナメント形式の試合が大半

先述通り、スポーツの語源にも触れましたがスポーツには「気晴らし」や「楽しむもの」という意味が込められています。この語源からもスポーツというのは日常的に行われるようなものであることが感じられるかと思います。

しかし、日本の育成カテゴリーにおけるスポーツの試合形式を考えてみてください。サッカー競技ではリーグ戦が導入されていたりしますが、多くのスポーツ競技において、小・中・高校のカテゴリーの試合形式はほとんどがトーナメント形式で占められていると思います。

しかし、このトーナメント戦というのは一度負ければ、そこで終了。「負け」は「スポーツを楽しむことができないこと」と同義なのです。試合に勝てないチームは1試合しか経験できない。つまり楽しめないわけです。楽しむためにはとにかく「勝つ」以外の選択肢はないのです。

このように考えていくと、まさにトーナメント戦は武道と通ずるものがありますが、スポーツの本来のコンセプトからはかけ離れたものがあります。

では、スポーツに相性の良い試合形式は何か?

それはリーグ戦形式です。リーグ戦もいろいろなやり方はありますが、基本的に一回でも負ければそれ以上試合ができなくなるといった性質のものではありません。一番強いチームも一番弱いチームも同じだけ試合をすることができるというコンセンプトがそこにはあります。「スポーツを楽しむ」「勝利至上主義に陥らない」というコンセプトがリーグ戦形式には内在していると思います。

勝利至上主義に替わるものは何か?

さて、ここまで育成カテゴリーにおける勝利至上主義の弊害、そして勝利至上主義が蔓延する背景について述べてきましたが、この勝利至上主義にとって替わるものはあるのでしょうか?

私が考えるそれは、多面的評価主義です。

完全なる造語ですが、意味合いとしては「勝ちだけを評価軸にするのはやめましょう。それ以外の部分にも価値を見出し、複数の観点から評価しましょう。また、評価の時間軸についても短期的なものから、中・長期的なものまで複数の時間軸を持ちましょう。」というものです。

「勝ち」以外の複数の価値観を持つことによって、「〜至上主義」といった偏った考えに陥ってしまうことを防げると思います。そして、何に「価値」を置くのかについて育成に関わる大人であるコーチ、保護者、そしてさらには選手同士で話し合いことができれば、間違った方向に進んでいくことはなくなるのではないかと思います。

勝利至上主義に対する議論が噴出しているということは、良い方向に向かっているとも言えます。議論を議論のままで終わらせてしまうのではなく、きちんと現状の育成システムを見直し、新しいシステムを創り上げるなどして変化を起こさなければいけないと心から思います。

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