プロフィール

こんなに長い自己紹介を書いたのは初めてです。興味ありそうなところだけでも読んでいただけると嬉しいです。

名前:雑賀 雄太(サイカ ユウタ)

これまでの職歴などについてはこちら:facebookページ

誕生

1987年、徳島県徳島市生まれ。一般的なサイズからは逸脱したサイズ感で生まれ、母を困らせる。薄毛で当時は、髪の毛が生えてくるのかどうかを本気で心配される・・・・。しかし、なんとかここまできました。

あまり覚えていない幼稚園

この時代、唯一はっきりと覚えているのが、大好きな先生にラブレターを書いて渡そうとしたところ、友達にラブレターを開けれらてしまい大泣きしたという事件。あと、ドラゴンボールの絵を描くのが大好き。当時の夢はなぜかガンダム大将軍。一体何を求めていたのでしょう。

バレー中心の小学生時代

ほとんどがバレーボールの話ですが、それも仕方ありません。バレーばっかりしてましたから。

父の影響でバレーボールを始める。当時、ジュニアバレーチームを立ち上げるということで入団。が、しかし男子チームは自分を含めて3名。女子に混じって練習するといった状態からのスタート。友達にバレーボールしようと誘っても「え〜バレエって女の子がするやつやろ。だせ〜」といったおきまりの返答をいただくこと多数。

2年生になると、人生最大のモテ期到来。早熟タイプ。7名の女子が家まできてチョコレートをくれました。
バレーボールでは、男子メンバーが新加入してなんとか6名揃う。人数が少ないため2年生ながらレギュラーとして試合に出られるように。これは今思うとラッキー。

3・4年生では新しい仲間と出会い、同級生のバレー仲間が一気に増える。学校生活もクラスに恵まれ、毎日楽しい日々を過ごす。

5年生では、運よくバレーボールの香川県予選で優勝して全国大会に出場することに。全国優勝チームにコテンパンにされ、ついでに小指も突き指して大泣き。全国レベルを実感しました。

6年生では、2年連続バレーボール香川県予選を制して全国大会に出場しました。結果はベスト16。
当時、バレー選手の加藤陽一に憧れ、筑波大学に進学して、東レに入社してバレーをするという夢を描くように。なかなか具体的な夢を抱いていました。

さらにバレー中心の中学生時代

ここまで書いてきて、ほとんどバレーの話ばかりだよねと思いながらも、読んでくださった方。まだ続きます。すみません。

1年時から試合に出してもらい、様々な経験を積み、2年時には良いメンバーに恵まれ、全国大会に出場する機会を得る。思春期真っ只中ではあるが特に両親とモメることもなく、反抗期と思われる行動もほぼ皆無。母親と毎日学校での出来事などについて話していた。

3年生になり初めてチームキャプテンに。2年連続で全国大会に出場する機会を得ました。

さらに、香川選抜チームに選出され、そこでもキャプテンを任されることに。リーダーとしての役割を与えられ、どうやって人を引っ張っていけばいいのだろうと考えるように。

そして、ジュニアオリンピックカップの大会を終えて感じたこと。それは、
「大きくないとバレーで飯は食えない。どんなにうまくなっても自分の身長ではプロは目指せない。」
ということ。これは完全に思い込みでした。

もしもタイムマシンがあるなら、中学3年生の自分に一言こう言いたい。

「いや。いや。諦めるの早すぎやろ〜。まだ何もしてないや〜ん。」

しかし、タイムマシンはまだ開発されていないので、バレーボール選手になるという夢は諦めることにしました。
そして、初めての進路選択。文武両道を目指す高校を選びました。

さらにさらにバレー中心の高校生時代

また、バレーの話ばかりです。もう少しだけお付き合いください。

入学し、しばらくすると、人生初の長い長いスランプに。辛くて辛くていつになったらこの長いトンネルをくぐり抜けることができるのだろうと思いながら日々を過ごす。

1年が過ぎたあたりから徐々にスランプから脱出。高校2年生で迎えた春高バレーでは香川県予選の決勝戦進出。しかし、セットカウント2対1で迎えた第4セット。後1点でデュースになるところでサーブ順がやってくる。そこでとった選択肢は「一本勝負」結果、自分のサーブミスで試合を終了させてしまう。これは一生忘れることのできない出来事。

そして、最上級生に。高校生活最後の総体の1ヶ月前。チームメイトが怪我に苦しみ、一時は自分以外のレギュラーメンバーがほぼ全滅。しかし、その時にあることを悟る。

「自分がコントロールできることだけに集中し、前向きにやるべきことをやり続ける」

高校生活最後の試合は国体。そこでの試合を境に現役を引退する。

そして、3年生時副担任の影響を受け、将来は高校教師になることを考えるようになる。
そのため、一旦バレーボールから離れ、これまでやってこなかったことをしようと考え、大学進学を決意。

色々なことを試してみた大学生時代

大学入学早々、「自分は関西に馴染めない。」と勝手に思い込み、早くも香川県に帰りたい願望が全開。
気の合う友人にもなかなか出会えず、悶々と過ごす。
そして、これまで自分のアイデンティティーでもあった「バレーボール」がなくなったことで、自分に一切自信を持てなくなってしまう。引きこもり気味に。そして、ブックオフに行ってはひたすら「自己啓発本」を買っては読むを繰り返すように。自己啓発マニアみたいになっていきました。

自分に自信が持てないながらにも自分の自信を取り戻そうと、サークルに参加してみたり、簿記研究部で真面目に勉強してみたり、英語研究会に入ってみたり、さらにはボランティア活動をしてみたりと様々なことに手を出してはみる。
しかし、バレーボール以上に没頭できるものには結局出会うことはできず。時だけが無情にも過ぎて行く。どれも中途半端に手をつけてはやめる。これはまずい。まずい。こんなはずじゃなかった。。。

負のループから抜け出すために、何かチャレンジしなければと考えるようになる。そして、絶対に海外になんていかないと思っていた私が、大学2年生の秋からカナダに三ヶ月間の留学プログラムに参加することに。

留学では、英語への抵抗感がなくなったということ以上に、自分の人生に影響を与える出来事が。

留学中に旅行で立ち寄ったニューヨークの街で、猛烈な経済的な格差を肌を持って実感。明らかに超セレブにしか見えない人たちが歩くメインストリートから一本外れた裏通りにはホームレス。
すごい違和感を感じ、自分に何かできることはないのだろうかと考えるようになる。

そして、帰国後すぐにカンボジアに。現地で小さい子どもがお金をせびってくる姿をみて、さらにその思いを強くする。

カンボジアから帰国してからは、すぐにホームレス支援を行うNPOでインターンを経験。ホームレースの人たちのお話を聞くなかで、貧困問題を解決するキーワードは「教育」だと思うようになる。

それからも悶々とした思いを持ちながら日々を過ごしていると、ボランティア活動をする団体の理事長に一冊の本を渡される。
その本には「日本の子どもの貧困」について書かれており、そこで日本にも「貧困」が存在しているという事実を知る。
そして、4年生になるタイミングで理事長からもらった事業アイディアを実現すべく、子どもの貧困プロジェクトを開始。メンバー集めから一人で始めて、卒業までの間に活動資金100万円以上を募金活動で調達。
無事、支援活動をスタートさせる。

社会人生活スタート。そして、起業

縁のあった教育関連のNPOで社会人生活をスタートさせる。海のキャンプ場のスタッフとしてインストラクターを務める。シーズン中は、毎日エンジンボートに乗ってプログラムを実施し、シーズンオフ中は、船の修理や草刈り、そしてペンキ塗りと、なんとも個性的な経験をする。筋肉の量が人生で一番多かった。

しかし、夏のシーズンを終える頃から、自身が始めたプロジェクトを仕事にしたいと考え、起業するため退職を決意。そして、退職まで1ヶ月というところで東日本大震災が発生。これが大きな転機となる。

震災によって経済的に困窮する子どもたちが多数出てくることを想定し、プロジェクトのスキームを活かした被災地支援活動を開始することに。このとき、先輩2名と仙台に渡ってともに起業することに。

地元香川で教員に。そして家族ができる。〜順風満帆〜

3年の活動を経て、兼ねてより将来の職業として考えていた教員を目指すため地元に戻ることに。教員採用試験に向けて勉強を開始。その後1ヶ月足らずで、人の縁もあって私立高校の教員として採用される。

教員として日々を過ごしながら、運よく希望するバレーボール部の副顧問を任されることに。
指導をする中で、再びバレーボールに対する思いが大きくなっていくことを実感する。
そして教員になってから数ヶ月。後の妻となる女性とバレーボールを通じて出会う。そこで意気投合し、小・中学生対象のバレークラブを立ち上げる。その後、出会って1年経たずして妻と結婚することに。その後、息子が生まれる。

安定したやりがいのある職業につき、家族もできてまさに順風満帆。心から幸せだと感じる毎日を過ごしていました。

今のままで死ぬとき後悔しないか?

妻と「今幸せだよね。」という話をしながらも、「じゃ〜本当に死ぬまでにやってみたいことはないの?」という話をしていると色々と出てくる。出てくる。

「海外で生活してみたい(両方)。雇われない働き方をしてみたい(私)。仕事としてバレーしたい(私)。・・・などなど」

そして、

今の生活をずっと続けていっても死ぬときに幸せだったね。って思えると思うんだよね。ただ、もし今の生活を続けて死ぬ瞬間に、あれも本当はしてみたかったな〜って思うこととかないかな?もし、それがあるとしたら、それって死ぬとき後悔するパターンじゃない?

「そうだね。確かに。」

こんな会話を繰り返しているうちに、だんだんと自分たちのしたいことがクリアになっていきました。そうすれば自分たちのしたいことできるんだろう?って具体的な話になっていきました。

そして、移住先もブレブレで、「フィンランド(なんか綺麗そうだから)→スウェーデン(同左)→どこでも海外だったらいいんじゃない。ほとんど行ったことない国ばかりだし。」みたいな感じでよく分からない感じになることもありました。

でも話を重ねていくうちに、自然とドイツ・ベルリンに決まっていました(一回も行ったことなかったんですが・・・)

しかし、どうやったら家族で海外移住できるのかを調べていくうちに、様々な問題が生まれた。
まず、そもそも最初から家族全員で行くビザを取得することは難しいということが分かったのです。

そして、考えに考えた挙句、まず私がワーキングホリデービザで現地入りし、それをフリーランスビザに切り替え、それから配偶者ビザで妻と息子を呼べばいいんだ。という結論に。

これしかない。

妻との話し合いを重ね、この方向性で決定。
そのあとは、一直接に事は進んでいった。

正直辛いが「家族最強説」を証明したい

空港を発つとき、妻と息子が送迎してくれた。数ヶ月は絶対会えなくなることは前々から分かっていたのだが、別れの瞬間に涙が止まらなくなってしまった。これは事前には想像できなかった。

結婚してから3年。息子が生まれてもうすぐ2年。ずっと当たり前に一緒にいたので、離れて生活することがどのようなものかを想像できなかったのである。このとき、私は本当に心の底から自分はバカだと思った。

でも、今は毎日浮き沈みしながらも毎日前を向いて自分なりに戦っている。
それは、妻が唱えた「家族最強説」を証明したいからである。

妻は、私がベルリンに発つ前によくこんなことを言っていた。

「家族って最強よね。」

その理論はよく分からなかったが、なんかとても印象的な言葉で気に入っていた。

今自分にこんな質問をしてみる。

「独身の自分が一人でベルリンにきて、今やろうとしているようなチャレンジをしようと思ったか?」

答えは自信を持って「NO!」である。たぶんというか絶対にしない。とてもじゃないが怖くてできない。

家族がいるからチャレンジしようと思ったし、今前を向いてやれていると思っている。

これってもしかすると妻の言う「家族最強説」のことかもしれないと勝手に思っている。

しかし、この説が正しいことを証明するには、私たちが私たちのやりたいことを実現する必要があるんじゃないかと思っている。

だから私はこの説の立証するためにも日々を全力で走っていく。

最後に

プロフィールの内容から少し逸れてしまった感は否めませんが、最後の締めくくりにあらためて自己紹介を。

家族最強説を立証しようとただいま、3つのことにチャレンジをしています。

1.家族で海外移住すること

2.フリーランスになること

3.プロバレー選手になること

プロフィール追記(2018年6月5日)

まさか、こんなに早い段階でプロフィールに加筆することになるとは思っていませんでした。
しかし、今後もありのままにブログを更新していく上で、この「加筆」は必要な作業だと思いましたので加筆します。

当たり前のことが当たり前ではない

ドイツ・ベルリンでのチャレンジが始まってちょうど1ヶ月。5月13日。

私たち家族にとって生涯忘れられない出来事が起きました。それは息子の大怪我です。

妻からその連絡を受けました。

当初、事実を受け入れらない自分がそこにはいました。

遠く離れた場所から息子の状況も分からず、どうしようもない不安だけが押し寄せてきました。

自分はどうしたらいいのか?

正常な思考はそこにはなく、ただただ混乱状態が丸一日続きました。

しかし、チャレンジを始めようとしたときのことを思い出しました。

家族最強説のことです。

考えるまでもなく私にとっては家族が最優先です。

そこに立ち戻ってからはすぐでした。1日で全て後片付けをして日本に帰ってきました。

日本に帰ってからは、家族で過ごす時間がこれまでで一番長くなりました。

1ヶ月の空白期間を埋めるかのように3人で過ごしました。

そして、多くの方々にサポートしていただきながら息子も回復し、今では普段通りの生活に戻ることができています。

当たり前のことが当たり前ではない

この言葉は前から知っていましたし理解もしているつもりでしたが、今思うと本当の意味では理解していなかったのだと思います。

でも今は、前よりもこの言葉の意味が理解できていると確信しています

これからも当たり前に感謝する気持ちを忘れない自分であり続けたいと思います。

人生は不確実性に満ちている

今回の出来事から、改めて人生には何が起こるか分からないという想いを強くしました。

だからこそ、一瞬一瞬をもっと大切にしたいと心から思うようになりました。

現状、私自身の進路は決まっていません。ただ息子の状況からは海外での生活は難しいと考えています。

家族との時間を大切にしつつ、これから少しずつ上を向いて歩いていこうと思います。

プロフィール追記(2018年8月1日)

前回、プロフィールを加筆してから約2ヶ月が経ちました。

こんなにすぐにプロフィールに加筆することになるとは思ってもいませんでした。

たった2ヶ月。されど2ヶ月。

この短期間に人生においてたくさんの重要な決定をしたように思います。

私が死ぬときに、人生を振り返るとしたらおそらくこの2ヶ月は「ターニングポイント」となるに違いありません。しっかりと今、言語化しておこうと思います。

「もしも」はない

ドイツ・ベルリンでスポーツフリーライター(自称)として活動していた際、バレーボールに関する記事を執筆したことをきっかけに、北海道初のプロバレーボールチームを運営する会社の社長と知り合いました。息子の怪我のため、急遽帰国するという旨を連絡すると会ってくださることになりました。

非常にフットワークの軽い方で帰国後、1週間経ってすぐに会ってくださいました。そして、お話させていただいた結果、一緒に働かせていただくことになりました。ドイツ・ベルリンであのとき行動を起こしていなければ・・・。こうした出会いがなかったと考えるとなかなか感慨深いものがあります。

人生に「もしも」はない。

日々無数にある選択の一つ一つが人生を大きく変える可能性があるということを痛烈に感じずにはいられない経験でした。

だからこそ、「もしも、あのとき◯◯◯しておけばよかった。。。」といった「やらなかった後悔」をしない人生を歩んでいきたい。

そのためにも自分の「やりたい」「やってみたい」といった気持ちをこれからも引き続き大切にしたいと思います。

北海道比布(ピップ)町へ

新しい仕事をするにあたって、移住することになりました。

移住先は北海道比布(ピップ)町

北の大地である北海道のど真ん中。いちごとスキーの町。町技はバレーボール。

一度も足を踏み入れたことのない町でしたが、不思議と大きな不安はなく、むしろ何か縁のようなものさえ感じました。※比布(ピップ)町については下記の記事をご覧ください。

新生活

ベタですが、今日から新生活がスタートします。

新しい土地。新しい人々。新しい仕事。

ワクワクワクワクワクワク。ちょっとドキドキ。

安全地帯は家族。安全地帯を基地にして、どんどんチャレンジしていきます。

北海道比布町編

始まります。

タイトルとURLをコピーしました