スポーツコーチは一体どうあるべきなのかを真剣に考えてみることにした

コーチ。

一般的に「指導者」と日本訳される言葉ですが本記事では、その意味や語源について触れ、最終的に「コーチとはなんぞや?」というところまで考えていきたいと思います。

コーチの意味を調べてみよう

広辞苑で意味を調べてみると、

「競技の技術などを指導し訓練すること。また、それをする人。」

またせっかくなので別の辞書でも調べてみました。

ジーニアス英和大辞典で調べてみると、

「名詞:セダン型有蓋自動車、大型4輪馬車、(運動競技・演技など)コーチ、指導員(サッカーやフットボールの)監督、(受験指導専門の)家庭教師。動詞:〜を馬車で運ぶ。指導する。(チームなど)のコーチをする。」※一部抜粋

色々な意味が出てきましたね。次はコーチの語源について触れておきましょう。

コーチの語源は実は ” 馬車 ”

コーチという言葉が英語の ”coach” として市民権を得るようになったのは遡ること16世紀。前述の英和辞典の意味にも出ていましたが自家用の大型4輪馬車のことを指して、名詞として使われるようになったのが始まりとされているようです。

時代が流れ、名詞としての「自家用大型4輪馬車」という意味から、馬車に乗った人(この時代に馬車に乗っていた人の身分はかなり高かったと想像します)を目的地まで大切に送り届けるという意味の動詞として使われるようになったということです。

さらに時代は流れ、1840年代になると「受験指導専門の個人のための家庭教師」という意味で使われるようになりました。その理由は、教師が個人の能力を見極めながら、受験の成功というゴールに向かって指導をすることを「目的地まで馬車で大事に送り届けること」に例えたところに由来しているようです。

そして現在。日本のスポーツシーンで使われる “コーチ”という言葉は「スポーツの技術などを指導し、訓練すること」というのが一般的な理解のようです。

しかし、”コーチ”という言葉はここまで語源を遡ってみて分かるように海外から輸入された言葉です。私たち日本人が捉えている”コーチ”の意味するものは、海外で捉えられている “コーチ” が意味するものと、少しばかりニュアンスが違っているのではないか?と感じています。

これまで、日本のアスリート育成を支えてきた部活動

まず、日本での”コーチ” のニュアンスが海外のそれと違っているのではないかと考えるようになったきっかけが、いわゆる「部活動」の存在です。日本のスポーツ界における育成システムについて考える上で、この「部活動」システムに言及しないという選択肢はありません。日本では、学校教育の一部としてこの「部活動」システムが大きな存在感を示していると思います。最近では教師の働き方の議論で、部活動の在り方が見直されつつありますが、まぎれもなくここ数十年において日本のスポーツ界の育成基盤を担ってきたといっても過言ではないと思います。

私も例に漏れず、中学・高校時代は部活動に所属しバレーボールをしていました。そして自分自身も、高校教師としてバレーボール部の副顧問を担当し、実際に部活動の現場に関わってきました。現在は、部活動の現場から離れたことで客観的に「部活動」システムを捉えるようになったことで、それまで感じていた違和感を少しずつですが言葉にできるようになってきました。

ティーチングとコーチングは同じなのか?

私が感じるようになった違和感とは一言で言うと、教師がコーチをしているという点です。教師の仕事は教えることです。「ティーチング」については、大学を通じて多くを学んでいます。しかし、コーチングについては個人的に学んでいない限りは、学ぶ機会はないのが現実だと思います。言葉遊びではないかと言われればそれまでですが、私はティーチングとコーチングは似て非なるものだと考えます。

もちろん教師の中は、素晴らしいコーチングができる人が一定数存在していることに間違いはありません。これまでにも素晴らしい教師でありながら、素晴らしいコーチングをされている方に多く出会ってきました。

しかし、「ティーチングもコーチングも同じでしょ。教師ならコーチングもできるよね。」的な空気感は否めないと私は感じてしまいます。

部活動は学校教育システムに内包されるもの

部活動は学校教育の枠組みの中に取り込まれてしまう。

前述の通り、部活動はスポーツ界の育成システムの重要な部分を担ってきましたが、本来的には学校教育システムの一部です。つまり、そこには「部活動は教育である」という論理が絶対的に存在しています。

もちろんスポーツを通じて、人が成長していくというのは紛れのない事実ですし、私はそこにスポーツの価値があると思います。しかし、学校教育の一部として部活動の枠組みの中でスポーツが行われる限り、本来「楽しいもの」や「気晴らし」であったはずのスポーツの本質が後回しにされてしまうという現実があるのではないかと思うのです。

絶対的な教師と生徒の関係性

そして、現在の日本の学校教育という枠組みの中には、教師と生徒の間にいわば、絶対的な上下関係なるものが存在しているという事実があると私は思っています。そして、これは部活動が学校教育の一部である限り、教師と生徒という上下関係性が部活動にも必ず持ち込まれてしまうということを意味しています。

私自身も高校教師として部活動に関わりましたが、教師と生徒という関係性をできる限り排除し、コーチとプレーヤーとしての関係性を築くことを考えましたが多くの葛藤を感じながら日々過ごしていたように思います。

フラットなコーチとプレーヤーの関係性

コーチとプレーヤーの理想的な関係性はなにか?

このことについては、バレーボールの育成に関わるようになった時点からずっとこれまで考えてきました。

今の私が、まず一番根っこに持っておくべきだと考える意識は、コーチの語源にもある「目的地まで馬車で大事に送り届ける」というものです。この意識はコーチングをする上で、いかなるときも絶対に忘れてはいけないと思っています。

もう少し「目的地まで馬車で大事に送り届ける」について噛み砕いて説明します。まず「目的地」という言葉に注目しなければなりません。この「目的地」は必ずプレーヤーが設定したものであることが重要です。つまり、目的地はプレーヤーの数だけ存在し、かつその目的地の設定は常にプレーヤーによってなされたものであることが重要ということです。この時点で主体は常に「プレーヤー」にあり、コーチはサポートをする役割を担います。

あと、学校教育における「教師と生徒の関係性」と比較して考えるとすれば、コーチとプレーヤーの関係性はフラットであるべきだと考えます。互いに敬意を持って常に対等に意見を交換できるような関係であることが重要であると考えます。

少し、話がそれるかもしれませんが、特に育成カテゴリーにおいて、コーチングをしていると「褒める」という言葉がよく使われるように感じます。「子どもたちへのコーチングには褒めることが効果的だ」といった文脈でです。しかし、私はこの時点で既に上下関係が発生しているように思います。褒めるという行為には上位者が下位者に対して行うというニュアンスが既に含まれていると思うからです。ですので、私はプレーヤーが素晴らしいプレーを見せてくれたり、素晴らしいと感じる行為があれば、そこに対して喜びを表現したり、感謝の言葉をかけたりすることが大切だと思っています。

スポーツコーチは一体どうあるべきなのだろう

長々と今考えていることを書いてきましたが、結局何が言いたかったのかというと、コーチは常にどうあるべきかを考えないといけないということです。コーチのやるべきことは、見た目には地味で、例えるなら本当にひたすらに芽を出すのかわからない種を植え続けるようなことばかりだと思っています。そして、日々のプレーヤーとの関わる中で、何をしようか?何をすれば、プレーヤーにとってプラスになるだろうか?(WHAT TO DO?)と考えることはしますが、立ち止まって自分はコーチとしてどうあるべきなのか?( HOW TO BE?)ということを考える機会は案外少ないのではないかと思います。

しかし、その問いを定期的に繰り返すことは実はとてもとても大切なことなのではないかと思うのです。

参考書籍のご紹介(3冊)

最後に私がコーチングについて考える上で、大きな影響を受けた書籍をご紹介します。


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